0625sky’s diary

推しが好き。芝居が好き。それでいい。

テニミュ3rd 全国立海前編 感想(立海編)

立海編です。青学は以下リンクから。

 

0625sky.hatenadiary.jp

 

立海は個人的に思い入れが強くて、色々言いたいことはあるんだけど、まずはパッと見て私の好きな立海がずっとそこにいることに安堵感、高揚感を覚えました。もう大好き。立海大好き。

 

2nd校歌も好きですが、1stの三連覇に死角なしが聞けて1stオタクとしてはとても嬉しかったです。マッチポイントからのチェックメイトからのウィニングロードの流れが最高すぎた。お耳幸せすぎるよ~!!

 

立海はもう、なんというか。好きです。

 

では立海キャストの感想を書いていきます。私は関東立海を見てないので、あくまでも全国立海を見ただけの感想です。すいません。

 

これからの彼らを思うと本当に切なくて苦しくて、今の彼らを思ってもそうです。どうすれば彼らは幸せになってくれるのだろう。

 

 

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テニミュ3rd 全国立海前編 感想(青学編)

友人から見ない?と言われて一人でテニミュを見てきました。

 

ミュージカル テニスの王子様』3rd Season 青学VS全国立海 前編
福岡公演 初日 12:30開演

 

アメリカからの帰国子女でテニスの天才少年越前リョーマが青学に入って全国優勝する話。その全国大会で立海との決勝戦の前半のお話です。今回の試合は以下の通り。

 

シングルス3 手塚 VS 真田

ダブルス2 乾・海堂 VS 柳・切原

シングルス2 不二 VS 仁王

ダブルス 1 大石・菊丸 VS ジャッカル・丸井

 

そしてシングルス1は後編へという流れ。曲順や1stの全国立海2ndの曲も混ざっていたりと大幅に変えられていながらも、原作に準拠していたように思います。

 

私、テニミュ大好きなんです。

でも私、3rdを見たことないんです。見ていたのは2ndまで。

いわゆる、にわかという者です。だからふざけんな!ってことをこれから書きますが、何かあればコメントをください。

 

『舞台は生もの』という言葉通り、会場や日によって公演の質というのは変わります。私はそのうち福岡公演初日昼しか見てないので、その印象で書きます。

だからもっと違う魅力がある!という方はアピールしてください。ステマ大歓迎です。これは自分の整理のために書いている節もあるので、失礼があったら申し訳ないです。

 

(以下、ネタバレを含みます)

 

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夏目漱石「こころ」が気付かせてくれた私の大切なもの

精神的に向上心のないものは、馬鹿だ。

 この一言は私を変えてしまった。変えた、というよりも変えてしまったという感じだろう。明治の大豪である夏目漱石の書いた「こころ」の有名な一節である。

 

 この一文がどんな経緯で、どんな意図を持って描かれているかというのは私にとってはどうでもいい(どうでもよくないけど、ここではどうでもいい) 。私を変えてしまったのだ、そうそれが重要なのだ。

 

 私が「こころ」に触れたのは、高校2年生の現代文の授業であった。周りの人がKを執拗に追い詰める先生や、お嬢さんを物のように嫁に迎えることに違和感を覚える同級生を横目に、私はこの「こころ」という作品に夢中になった。電子辞書の小さな画面で休み時間を通して見ていた。夏目漱石は凄い! !、国民が知るであろう事実に気付いた。

 

そんな私はこの「こころ」という作品を自分の所属する演劇グループの題材として脚本のコンペティションに提出した。毎年、この時期に1年を通して取り組む物語が決定される。ちなみにまだ本決定していない。きっと通らないと、少しだけ思っている。

 

それでもやりたかった。それでもやりたいと思ってしまった。

みんなでやりたかった、私がやりたかった。

 

これは決して自分がKを演じたいわけでも、先生を、私を演じたいわけではない。自分にとって大切なお話が、その「芝居」というツールを通り、文字が音声となり、形になる。肌をなぞり、客席の鼓動を動かし、喉を通り、虹彩にそれを焼き付け、心に刻み込む瞬間を欲していたといえよう。これは「情念」であった。何にも変えがたい「執着」のようだとも感じた。

 

確かに「こころ」には宮沢賢治のような純粋さも美しさもないかもしれない。神話のような雄大さも壮大さもない。宗教をテーマにした話のように大きな愛も、生死のテーマもない。古典のような悲劇性も感動もないかもしれない。

 

私と先生、私と家族、先生とKとお嬢さんのような小さな「家族・友人」という小さなコミュニティの中のお話で、それも最後は自殺をしてしまうという話だから。一見、恋愛の話というイメージがあるから。一度しかない発表に、そんなチンケな恋愛話なんてできるか!という主張もよくわかるんだ。

 

それでも、一度、演じたい、表現したいと思った衝動を抑えることはできなかった。

 

大学生になって自分のお金で文庫本を買った。気付いたら、本はくたくたになっていた。文庫本を買ったのは大学生になってからのはずなのに。また私は夢中になって読んだのだ。また思った。「なんてすごい作家なんだ夏目漱石は」。

 

一言で表すと「エモい」のだ。彼の文章はエモい。

私は現代文を専攻している訳ではないから稚拙な感想かもしれない。アカデミックなことなど何もしたことないし、いま学んでいることすらも生かせない人間だが、これだけはわかる。「エモい」。語彙力すら自分から失おうではないか。

 

夏目漱石の「こころ」はなぜ先生が死んだのか、なぜKは自殺したのか、わからないから苦手だ。わからないから読まない、難しい単語があるから嫌いだなんて人もいると思う。これはつまり絵柄が好みではないから苦手だ、読まないと言っているのと一緒だと気付いた。

この話が文学的にどうとか、夏目漱石が文学の重鎮だろうが関係ない。私と夏目漱石の「こころ」という物語の波長があったに過ぎないのだ。村上春樹が好きな人がいるように、川原礫が好きな人がいるように、西尾維新が好きな人がいるように。私にとって「好きな本」というだけ、ただそれだけで、他人がどうであれ語るに値する物語であるというだけなのだ。

 

物語を読む理由だとか、本を書く理由だとかどうでもいいと思う。どうでもいい、本当にそういうのは頭のいいアカデミックな連中に任せとけばいい。私のような人間は、ただ目の前の世界に没頭すればいいと思った。物語の世界に没頭したいと思った。

現実的に関係ないだとか、自分のためにならないとか、将来のためとかどうでもいいと思った。経済学よりも、コミュニティ論よりも、マネジメントよりも、この素晴らしい世界に没頭したいと改めて思った。それは「こころ」に決まったものではなく、全ての物語においていえることだった。唯一長く持ち続けた趣味である物語を書くことが、表現することが、読み取ることが好きだと思ったのだ。今までずっとそう言っていたけれど、「こころ」を読み通すことで本当の意味で、心の底から。

 

話を芝居へ戻そう。

 

私の所属している団体は「ことば」を大切にしている。だから、やる芝居は全て「英語」と「日本語」で語られる。「ことば」とはきっとツールたる「生きた言語」でもあると思うが、私は「英語」ではなく「物語」を教わった。日本語の面白さを知った。絵本から、スクリプトから、その背後に広がる途方もない世界を、いつまでだって冒険できる旅を知った。星のように輝きながら、宝石箱のように秘められた、開けてみなくてはわからない世界を知った。

その場所では泣かなくてもいいことで泣いた、わめいた、迷った。やりたくないと思ったり、逃げたり、怠けたりした。きっと他の人よりもグループへの愛着は低いといえる。それは私はそこのシステムよりも物語が好きだからなのだと思う。表現作りではなく表現することが好きで、思い入れが強いからだと思った。嫌いとも、思う。

 

でもその一方、そこが好きだと言う自分もいた。だって、私の中でその存在は大切なモノだから。これもまた情念だと思った。私はそれすらも含めて好きなのだと思う。人と円滑に関係性を進めること、作業も、話し合いも苦手だ。だが煩わしいそれらを凌駕する大きな大きな力が私を「好き」という一種の正の方向へ走らせている。

 

私に言葉の面白さを、物語を読む素養を、表現する素養を教えてくれたのはその居場所であった。そして物語の面白さを……いや、物語への情念を教えてくれたのは「こころ」であった。

 

そしてそれを身体で表す場所を与えてくれたのは、やはりその場所であった。

 

始まりと終わりにいつもそこにいた。こんなに長い間、私のそばにあったものは家族かその場所くらいのものだ。私は教えられたのだ、刻み込まれたのだ。この場所は君の生きる道を作るのだと。

 

私は初めて、本当の意味で好きだと思えた。今の自分で良かったと思えた。今の私があるのは「その場所」のおかげなのだと、わかってしまった。俄かにも信じがたい現実が、唐突に、雷のように、そして啓示のように、降りかかってきた。

 

「こころ」を読んで、それをプレゼンした瞬間にわかってしまった。

 

私はこれを形に出来たら死んでもいいと思うだろう。感極まって泣くだろう。一種のエゴイズムといってもいい、私は自分の情念のために「その場所」を利用するのだから。ラボをやめるべきだと思うだろう。きっと目の前にある景色だけで、満足してしまうから。これで終わりだと思ってしまう。

 

私はその終わりを見たことがないからわからない。きっと他の人と同じように晴れやかな顔で、同期みんなで手を取って卒業なんて真似はできない。これは悔いだ、そして報いだ。好きだといいながら嫌いと思っていた自分への、嫌いと思いながら好きだと嘘をついた自分への。

 

私は衝動で書いている。書き始めた。止めることなどできないであろう。誰に言われなくとも書いている。書くことで生の実感を確かめている。それが「己」なのだ。「その場所」というシステムが、「表現」という技法が、「物語」という光が、作り上げた「自己」なのだ。

 

私はいま、初めて「その場所」の意味を知った気がする。そんな気がするのだ。

 

まだ作品が上演することが決まった訳ではないし、時間もある。けれど、私はこの数ヶ月で、20年近い在籍はこの時のためにあったのではないかと考える。きっと通らないだろうな、でも好きだな。「こころ」も「自分」も。

 

私は自分のことが嫌いで苦手だけれども、初めて自分を好きだと思ったな。これを「こころ」という存在が教えてくれた。